スナックのママ「あら社長さん、一段とお歌が上手になられたんじゃありません?」
社長さん「そうだろ~ママに愛を伝えるために猛特訓したからね~(デレデレ)それはそうと、ママは会うたびに美しくなってるね~」
スナックのママ「まっ、社長さんったらお上手なんだから(腰に手を当ててセクシーポーズを取る)」
一同「わっはっは」
——文章で書いてるとちょっとサムイ感じもするけど、スナックやキャバクラではこういった会話が日常的に行われてるらしい。自身はそういうところに行った経験がないから、あくまで創作や知人からの又聞きしかソースはないけど、社会構造で考えたら自然な話だとも感じる。
この「明らかに嘘を言い合ってる状況」について、嘘自体を楽しみ合えるのはある種の能力で、財産で、もしかしたら先天的な能力かもしれないと感じる出来事が最近あった。
男女間や、サービス提供者と客という立場や構図以外でも、「明らかに嘘なんだけどみんなで楽しんで笑い合える」って状況はたくさんある。お笑いもそうだし、拡大解釈すればドラマや映画だってフィクションだけど笑えるし感動もできる。
つまり、楽しもうという前提で創作っぽい嘘をつきあって、それを創作だとわかる人同士が、嘘を楽しめるって話。
逆の場合はどうなるか。
フィクションなのに、現実と比較して真剣に怒る人たちが少なからずいる。
- 歴史モノの創作物で正史と違うと怒る
- アニメや漫画で筋肉質な男や丸みのある女性が描写されるとジェンダー問題にする
- SF映像作品で宇宙の中で音が鳴ってたら「真空で音は鳴らない」と指摘する
などなど、現実と架空の線引きや区別がおそらく苦手なんだと思しき人たちが、少なくともインターネット上ではたくさん見かけるし、日常の中でもあまり関わり合いにならなくて済むだけで一定数は存在を確認できる。
結局そういう人たちが「嘘とわかって嘘を楽しむ」ってことができない人たちということなんだけど、冒頭の例で言えば、お世辞を真に受けてしまい勘違いする人は、男女関係だったらストーカー化したりメンヘラ化したりするという、現実に置き換えると非常に恐ろしい問題に直結してる。
しかも、これまで認知科学を学んできた限り、「嘘を嘘とわかって楽しむ能力」は、どうやら先天的な要素が強い。
論理的推論能力や、記憶した情報の正順と逆順の果てから果てまで行ったり来たりする能力(認知機能と実行機能に影響してる)は、そもそも70%くらいが遺伝要因ということがわかってる。
つまり、相手の意図だったり話の背景、動機、主旨、文脈みたいなものは、表面的な言葉だけでは判断できず、蓄積されていく記憶と現在のすり合わせをして初めて判断できて、それは個人の能力に依存していて、人間の能力というのは努力ができるかどうかすら運だから、根本的に解決するのは難しいということ。
言い換えると、嘘を嘘とわかった上で嘘をつきあって、それを楽しみ合おうと思ったら、言語コミュニケーションを取りながら非言語コミュニケーションも同時進行で取るという、認知機能としては非常に高度なことを「その場にいる人全員」がリアルタイムでしなきゃいけないけど、現実的にかなりバイアスをかけないと難しい。
芸術やお笑いの分野でたまに聞く「シュールレアリスム」というものがある。
「うまく言葉では表現できず、よくわからないけど、なにか感じる」みたいなやつ。わかる人からすれば、「ああ、あの感覚ね」と当たり前のように共通認識があるけど、おそらく圧倒的なマイノリティ。
仮にそういう感覚を理解したり会得するために長期間に渡って訓練したとて、もともとからそういう能力があって環境要因で抑圧されて封印されたみたいな稀有なケースでもない限り、後天的に養うのは到底不可能に近いように感じる。
だから、「嘘を楽しめる or 楽しませる嘘をつける」という能力のある人は、何物にも代えがたい希少な財産としての能力なんだと自覚すると、もっともっと人生を楽しめるんじゃないかな。