1. 社会的なルールに戸惑うギフテッドたち:その背景と脳の仕組み
学校や職場、友人関係など、どんな集団にも「暗黙の了解」や「空気を読む」ことが求められます。けれども、ギフテッド(またはギフテッドの傾向を持つ人)の中には、そういった“当たり前”とされるルールが理解できなかったり、納得できなかったりして悩んでいる人が少なくありません。
この「社会的なルールがわかりづらい」という特性は、決して人格や意欲の問題ではありません。むしろ、脳の仕組みや思考の方向性に深い関係があります。
合理的思考とoverexcitability:そもそもの“判断軸”が違う
まず前提として、ギフテッドの多くが持つとされる特徴のひとつに、合理的思考(ロジカルシンキング)があります。これは「物事の筋道が通っているか」「理屈として納得できるか」を重視する考え方で、感情や慣習に流されずに判断しようとする傾向があります。
さらに、「overexcitability(過度激動性)」という特性も影響しています。これは、感覚や思考、感情、想像力などに対する敏感さや反応の強さを指します。具体的には、些細な不整合にも強く反応し、「どうしてこんな非効率なルールがまかり通ってるの?」と疑問を持ちやすくなります。
こうした特性のため、「なぜそれがルールなのか?」「何のために従わなければならないのか?」という問いが常につきまといます。つまり、「そのルールが全体の利益にどう貢献しているのか」という整合性が見えなければ、受け入れがたいのです。
整合性の一致と全体最適化:部分の不合理に耐えられない
多くの人が「場の空気」や「慣例」に従って判断するのに対し、ギフテッドの一部は整合性の一致を強く求めます。整合性とは、「言ってること」「やってること」「本来の目的」がちゃんと一致しているかどうかを確認しようとする姿勢です。
たとえば「遅刻は絶対ダメ」というルールがあったとしても、「理由があって連絡も入れてるのに、それでも減点されるのはなぜ?」という問いが生まれます。全体の流れや成果に大きな支障がなければ、それは“咎めるべきことではない”と感じるわけです。これが全体最適化の視点です。
しかし社会には、部分最適=場の秩序を優先する場面が多く存在します。「形式上守らなければならないこと」や「上下関係の維持」が重視されるため、ギフテッドのように全体から見て最も合理的な行動を取ったつもりでも、評価されないどころか怒られることがあります。
正義感と理想主義が“なぜ守るのか”を問い続ける
ギフテッドの多くが持つ強い正義感や理想主義も、この問題をさらに複雑にします。
たとえば「ルールとは、人を守るためにあるものだ」と考えている人が、「誰かを苦しめるためにしか機能していないルール」に出会ったとき、深い葛藤を覚えます。そして、「守らなければいけない」とされるものに反発心を持つのです。
このような場面で、「守る理由がちゃんと説明されていれば納得できるけれど、説明もされずに従わされるのは納得できない」という感覚が根底にあります。これは反権威主義と呼ばれ、「地位や立場が上だからといって、無条件に従うことはできない」というスタンスです。
EQ(感情的知能)とエンパス:ルールより人を優先してしまう
また、ギフテッドの中にはEQ(感情的知能)が高い人も多く、周囲の人の感情に過剰に共鳴する特性を持つことがあります。この特性は「エンパス」とも呼ばれ、相手の気持ちを“自分のことのように”感じてしまう状態です。
そのため、「ルール通りに動くことよりも、目の前の人の気持ちに応えること」を優先してしまうことがあります。すると、「なんでこの人にだけ優しくしたの?」と周囲に責められたり、「平等に扱わないのはルール違反だ」と非難されることもあるでしょう。
しかし、ギフテッドにとっては「その場にいる人の感情や状況」を繊細に感じ取り、それを無視することができないのです。
外的強化と自己犠牲:自分をすり減らして適応しようとする
最後に触れておきたいのが、「周囲からの評価や報酬(=外的強化)」を受けるために、本当は納得できないルールでも従おうと頑張ってしまうという状態です。
この適応努力は一見ポジティブに見えますが、長期的には自己犠牲を引き起こします。「自分はおかしいのかもしれない」「もっと努力しなきゃ」と、自分を否定しながら適応しようとすることで、心のエネルギーが消耗し、燃え尽きてしまうこともあります。
結果として、「社会でうまくやるには自分を捨てなきゃいけない」という誤った結論に至り、自尊心や自己信頼を失ってしまうことも少なくありません。
2. 解決のヒント:理解と行動のバランスを取り戻すために
“わからなさ”を責めない:ルールは絶対ではなく、文化の一部
まず大前提として大切なのは、「社会的ルールを理解しにくい」という特性を、自分の劣等感や人格否定につなげないことです。ルールとは、普遍的な真理ではなく、社会や集団の文化、慣習から生まれた“便宜的な仕組み”です。
たとえば日本の学校では「先生に敬語を使う」のが当たり前でも、フィンランドでは先生をファーストネームで呼び捨てにするのが普通です。このように、ルールにはローカル性や曖昧さがあるのです。
そのため、あなたが「なぜ?」と疑問を感じるのは自然なことであり、むしろ社会の在り方を見直すきっかけになる貴重な視点です。「わからない自分が悪い」と思い込まず、「このルールはどのような文脈で成立しているのか?」と俯瞰する力が重要です。
合理性と感情の“二元論”を超える:人間社会の複雑さに折り合いをつける
ギフテッドの多くは、「正しさ」や「効率性」を求める合理的な思考を好みますが、社会は感情の共同体でもあります。つまり、「正しいかどうか」だけではなく、「納得感」や「安心感」によって成り立っているのです。
「矛盾を抱えながらも、なんとなく続いてきたもの」があるとき、それは“効率的”ではなくても、人間同士の関係維持のために必要だったという側面もあるのです。
ここで役立つのが「メタ認知」という視点です。これは、「自分の思考や感情を一歩引いたところから観察する力」のことです。「私はこのルールが変だと思ってるけど、多くの人はなぜそれに安心しているのだろう?」という問いを立ててみると、合理性と情緒の“どちらか”ではなく、“どちらも”に納得する感覚が育ちます。
理想主義と現実主義を統合する:部分最適との付き合い方
ギフテッドの中には「理想に向かって努力し続けたい」という思いが強い人が多くいます。それ自体は素晴らしい資質ですが、現実とのギャップが大きすぎると無力感や絶望感を引き起こすこともあります。
「この社会は非合理すぎてやってられない」と感じたときは、理想と現実を接続する“翻訳者”のような立ち位置を意識するのが効果的です。つまり、自分の中の正義や整合性を手放すことなく、相手の立場や状況に合わせた“表現方法”や“歩み寄り方”を見出すことです。
そのためには、少しずつでいいので「部分最適でも機能しているケース」を見つけ、例外やグラデーションに寛容になる練習をしてみましょう。たとえば、「このルールは全体最適から見れば不完全だけど、特定の人を守るためには必要かもしれない」という気づきが得られることもあります。
エンパスの扱い方:感情に飲まれず共感を活かす
エンパス傾向がある人は、「相手の感情」を感じすぎて、逆に身動きが取れなくなることがあります。これは共感力の高さゆえの課題です。自分の感情と他人の感情を切り分ける力を育てることが大切です。
「今、私はこの人の不安を感じている。でもそれは“私のもの”ではない」と意識的に境界を引く練習をすると、自他のバランスを保ちやすくなります。
また、共感によってルールを破ってしまうことがあったとしても、それは「心の痛みに寄り添った選択」であり、単なる“ルール違反”ではないという自信を持ちましょう。共感には人を守る力があります。
自己犠牲を手放す:他者貢献と自己尊重の両立
周囲に合わせるためにルールを無理に飲み込んでしまう人は、自己犠牲によって適応しようとしている状態に陥りやすいです。これは一見「良い人」「真面目な人」に見えますが、本人の心身にとっては大きな負荷となります。
「私が合わせれば丸く収まる」と感じてしまったときこそ、「それは本当に私が引き受けるべき問題なのか?」と問い直してみましょう。利他的動機づけ(他人の役に立ちたいという内側からの動機)と、自分の健康・幸福の尊重は両立できます。
そのためにも、「私は“このルールには従えない”と表明する権利がある」ということを自分に許してあげてください。意見を述べたり、距離を置いたりすることは、わがままではなく、健全な自己防衛なのです。
まとめ:正直さを失わず、賢く柔らかく生きる
社会的ルールに疑問を持つのは、「思考が深い」「視点が多角的」「感情に敏感」といった、あなたの豊かさの証です。大切なのは、その特性を否定せず、理解・共感・交渉のスキルとして活かしていくこと。
ルールに従うか否かだけでなく、「なぜそれが必要なのか」「どうすればより良くできるのか」と問い続ける姿勢は、社会全体の質を高める貴重な資質です。
あなたが「理解できない」と感じたことは、きっと誰かも感じていること。その気づきを共有することで、今あるルールをより人間的なものにしていくことができるかもしれません。